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知恵は知識ではない【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第31回

森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第31回

 

【頭は知識で肥満になる】

 

 その記憶力も、実は方法を教えてもらうようなことはなかったといえる。勉強というのは、記憶力を育むというよりは、ひたすらインプットを繰り返すだけだった。いわゆる「詰め込み」教育といわれる所以である。沢山詰め込めば、忘れてしまうものはあっても、記憶に残るものは確実に増えるはずだ、という信念で行われていた。

 一方では、発想や思いつきを体感できる数学は、この教育からは早期に外されてしまい、日本特有の「文系」という言い訳によって、詰め込んだ量を測るだけの試験に通れば高学歴をゲットできる社会が長く続いている。戦後の成長期には、科学やもの作りに憧れる子供が一定数いたけれど、バルブの時代には文系に人気が集中し、その後の産業の衰退を招いたように観察される。理系の技術者は、「経済を知らない」と揶揄され、虐げられる場面が多かった。「三角関数なんて社会で何の役に立つのか?」といった発言が、リーダ的な立場の人から出たりするほどだった。こうして、日本では新しい「発想」が生まれにくくなった、と見ることができるだろう。

 さて、僕はこれが悪いといっているのではない。このようにしたい人たちが多かったからこうなった、というだけであり、皆さんの思ったとおりになりましたね、という感想しか抱いていない。「このままでは、将来こうなりますよ」と自分の意見はたまに述べてきたし、そのとおりの現状だといえるので、「なるようになる」ことが証明された。

 社会は豊かになり、経済的にも発展したので、全然悪くない。幸運にも、わりと良い社会になったと思っている。

 ただ、さらなる発展をもし期待するのなら、やはり誰かが「発想」しなければならないだろう。それが日本以外から生じれば、日本の経済はジリ貧になっていく、というだけの話で、僕的にはなにも困った状況ではない。世界の誰かが新しいことを思いつけば、それは世界中に広がり、大勢の幸せに寄与するだろう。

 繰返しになるけれど、「発想」に必要なものは、「無関係」な思考であり、別の言葉にすると、それは「無知」な状態ともいえる。「知らない」ことを蔑むような人たちには、ここが理解できない。知らないのではなく、理解していない。新しい発想は、「知らない」人から生まれる可能性が高い。

 知識を詰め込んだ頭脳は、肥満した肉体のような鈍重さゆえに不活性に陥りやすい。知らないこと、記憶が少ないことが、むしろ身軽な思考を促す。「知恵」とは、自由な思考力のことであり、そのために知るべきものは、基礎的な公理、法則、原理のみである。具体的で詳細なデータではない。

 「もしかして、これが?」という思いつきを、日常的に体感する「知恵」のある人が、人類の未来を支えることは、まずまちがいない。

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 〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。

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森博嗣

もり ひろし

1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか、「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、また『The cream of the notes』シリーズ(講談社文庫)、『小説家という職業』(集英社新書)、『科学的とはどういう意味か』(新潮新書)、『孤独の価値』(幻冬舎新書)、『道なき未知』(小社刊)などのエッセィを多数刊行している。

 

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